八木伸浩(やぎのぶひろ)のサムライブルー魂

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ワールドカップへの道程

1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、開催地が南米であることから欧州勢は相次いで不参加を表明した。これに対してFIFAは加盟国に招待状を送ったものの、日本サッカー協会は参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、日本サッカー協会自身も財政難であったためである。なお、この大会は、以降の大会とは異なり、地区予選は行われていない。

日本は、1938年のフランス大会予選にエントリーした。この予選ではオランダ領東インドとの直接対決に勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退しエントリーのみに終わった。

第二次世界大戦後の1945年11月13日、戦後の混乱の中、会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。それから2年後の1947年4月1日に日本蹴球協会へと名称変更した上で再発足し、連合国軍総司令部 (GHQ) の占領終了の2年前の1950年9月23日にFIFAに日本蹴球協会として再加盟し、日本サッカー界は政治の世界より一足早く国際舞台に復帰した。日本代表は1954年のスイス大会で初めてワールドカップアジア予選への参加を果たした。韓国代表との一騎打ちとなったワールドカップアジア最終予選は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、韓国が李承晩大統領の意向(李承晩ライン)で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催されることとなった。日本はホーム開催のアドバンテージがあったにもかかわらず、その2試合とも敗れ出場を逃す。その後も、1950年代から60年代の日本はアマチュアリズム全盛の時代で、ワールドカップの意義、ワールドカップに出場する意義について理解していたとは言いがたく(当時選手として出場していた長沼健第8代JFA会長によれば1954年のスイス大会アジア予選に出場した頃は、そもそもワールドカップとはどんな大会なのか分からずに戦っていたという)、また東京オリンピックを目指して強化を進めていた時期も重なり、ワールドカップよりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、予選参加と辞退を繰り返す状態だった。

1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得すると、メダル獲得の目的を達成した。これによって、次の目標としてワールドカップ出場にも関心が向くようになり、1970年 メキシコ大会以降、継続的に予選に参加するようになった。しかし、オーストラリア(当時はオセアニアサッカー連盟〈OFC〉の予選の勝者がアジア予選に参加)やイスラエル(当時アジアサッカー連盟AFC〉所属)といった国々の前に屈し、アジア予選での敗退が続くことになった。この時期も依然として日本サッカー界にはアマチュアリズムの精神が色濃く残っていた。当時の日本代表選手にとっては「ワールドカップはプロ選手の大会」という認識だったのである。そのため、ワールドカップはオリンピック前のチーム育成の一環として捉えられることが多かった。例えば、ワールドカップアジア予選に若手を出場させ底上げを図り、主力のA代表(年齢制限のないその国最強の代表)を“本番”の五輪に参加させるといったことも、しばしばあった。また、テレビ放送やサッカー雑誌によってワールドカップの紹介がなされるようにはなったものの、選手もファンも、ワールドカップはあくまでもテレビで観戦するものであり、違う世界の出来事という認識を持っていた。

1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体状態から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。その後、2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)[37]。

日本にとって遠い道程であるワールドカップが身近なものとなったのは、1986年メキシコ大会アジア予選の活躍である。この大会の1次予選を1位で通過すると、日本は2次予選で香港を破り、最終予選となる韓国戦へと駒を進めた。しかし、第1戦ホームでは10番木村和司フリーキックが決まるも1-2で惜敗。ソウルでの第2戦も0-1で敗れ、日本は本大会出場を逃すこととなった。

この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟った日本サッカー協会は、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。また当時のFIFA会長のジョアン・アヴェランジェの意向もあり、ワールドカップ日本開催が俄かに現実味を帯び始めたことで国内での状況にも変化が現れた。日本でワールドカップを開催するとなれば、開催国の名に相応しい強い代表チームが必要となる。その為の強化に関わる様々な改革がなされるようになった。1993年からスタートしたJリーグもその一つである。

1987年10月26日、引き分けでも日本の1988年ソウル五輪出場が決まる有利な状況の中、ホーム国立で行われたソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ(中国が五輪出場)、予選敗退が決まった。それまで日本A代表の最大の目標だった五輪が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会に規定が変更されていた為、このソウル五輪予選敗退直後から日本A代表の目標はFIFAワールドカップ(W杯)へと完全に変わることになった。

1992年3月に、日本のクラブを指導し実績を上げていたハンス・オフトを日本代表初の外国人監督として就任させ、それまで出場したことのないワールドカップ本大会への挑戦が本格化した。強化は順調に進み、1994年アメリカW杯アジア予選では最終予選に進出する。しかし、イラクと対戦した最終戦で後半ロスタイム(現在のアディショナルタイム)に同点に追いつかれ引き分けたため、あと一歩のところで出場権を逃した(ドーハの悲劇)。

1998年フランス大会は、日本にとってワールドカップ本大会初出場を自力で果たす最後のチャンスとなった。それは、2002年に日本でのワールドカップが開催されることが決定していたためである。1997年のフランス大会予選では、最終予選グループでは韓国に次ぐ2位となったものの、プレーオフでは延長戦の末、岡野雅行ゴールデンゴールでイランを3-2で破り、1954年のスイス大会予選から43年越し10回目の挑戦にして悲願のワールドカップ出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。